浦上天主堂コース
所要時間 約2時間(うち移動時間40分)
1945年8月9日 午前11時2分。
アメリカの爆撃機B-29から投下された原子爆弾(原爆)が炸裂しました。
黒御影石の碑は、この上空約500mで炸裂したことを示しています。
この公園内には、原爆によって壊された家の瓦やレンガ、割れた茶碗など、その当時に生活していた人々の痕跡が今も埋まっています。その一部を「被爆当時の地層」から見ることができます。
信徒たちの勤労奉仕などによって建てられた赤レンガ造りの浦上天主堂は、当時、東洋一の壮大さを誇っていました。
爆心地から北東約500mという距離にあった天主堂は、原爆で建物のほとんどが倒壊・焼失し、堂内で多くの人たちが亡くなりました。
前庭などには被爆した聖人像などがあり、倒壊した鐘楼ドームも転落した状態で今も残っています。
爆心地から約700mの長崎医科大学内で被爆した永井隆博士は、自らも重傷を負いながら、被爆者の救護活動に取り組みました。原爆症の研究と発表を続けた博士は、被爆前から患っていた白血病が悪化し、寝たきりとなってからも、「この子を残して」「長崎の鐘」などの小説や随筆で、原爆の悲惨さや平和の大切さを訴え続けました。
「如己堂」は、博士が晩年を過ごしたわずか二畳一間の小さな家です。その隣にある記念館には、博士の遺品や写真が展示されています。
爆心地から北へ約600mにあったこの学校は、鉄筋コンクリート3階建ての校舎1・2階を残して全焼しました。この学校に通っていた児童約1,580人のうち、約1,300人が自宅などで亡くなったと言われています。
現在の校内には防空壕跡が保存されている他、犠牲となった児童やその家族、教職員などの霊を慰める「あの子らの碑」、展示資料室などがあります。
※校内を見学する際には、事前申し込みが必要です。
この場所には当時、長崎刑務所浦上刑務支所がありました。原爆で建物は倒壊し、刑務所内にいた職員・収容者など全員が亡くなりました。
現在は公園となっており、水を求めて亡くなった被爆者に捧げる「平和の泉」や、戦争犠牲者の冥福を祈る「平和祈念像」などがあります。
この祈念像の前で、毎年8月9日に平和祈念式典が行われています。