講話者プロフィール

*被爆時年齢順

築城 昭平 (ついき しょうへい)
男性 被爆当時18歳

プロフィール

当時長崎師範学校在学中。(18歳)軍需工場へ学徒動員され、爆心地から1.8kmの学校の寮で、当日の夜勤にそなえ睡眠中に被爆。全身火傷を負う。特に左腕と左足先は重傷だった。

丸田 和男 (まるた かずお)
男性 被爆当時13歳

プロフィール

当時県立瓊浦中学校の1年生(13歳)。爆心地から1.3㎞の銭座町1丁目の自宅で被爆。倒壊した家の下敷きとなり、重傷を負いながらも助かる。母死亡。中学校の同期生300人中約100人が原爆の犠牲となった。現在も後頭部から背中にかけて、約50箇所のガラス傷が残る。

山田 一美 (やまだ かずみ)
男性 被爆当時12歳

プロフィール

爆心地より2.3㎞の路上で被爆。国民学校6年生(12歳)だった。 突如、真夏の太陽より更に明るい閃光に包まれ、ものすごい熱さに死を覚悟したが、幸い岩陰にいたため怪我もなく無事だった。自宅近くの溝に祖母・叔母と家族3人で身を潜めながら、黙々と、破れた衣服で、怪我をして、杖にすがって、同僚の肩を借りて、幽鬼のように歩いて行く被爆者の群れを見ていた。 原爆の無差別性、非人道性を知ってもらいたい。

松尾 幸子 (まつお さちこ)
女性 被爆当時11歳

プロフィール

国民学校5年生(11歳)の時、爆心地から1.3㎞離れた場所で被爆しました。
私は無傷でしたが、弟達は怪我や火傷を負いました。0.7㎞地点にあった我が家は跡形もなく焼けてしまい、姉の骨だけが出てきました。 倒壊した建物の下敷きになった父は8月28日に亡くなりました。兄2人、姉、兄嫁、叔母2人も亡くなりました。
核兵器の廃絶と平和の尊さをプロジェクターを使いながら伝えていきます。

森田 博滿 (もりた ひろみつ)
男性 被爆当時10歳

プロフィール

当時10歳、爆心地から1.8㎞の自宅で被爆。
当番のため学校に出かけた帰り道、後ろで飛行機の轟音がした。振り返ると稲佐山の上に落下傘が見えた。その行方を兄と二人、目で追っていた。先輩が配給を知らせにきたので、父に知らせようと落下傘を見ながら玄関に入った瞬間、電気のスパークのようなオレンジ色の光と爆風に包まれ、家の中に5~6m吹き飛ばされ、気を失った。
「100分の1秒の命」あと一歩遅れていたら私の命は無かった。

森田 宏 (もりた ひろし)
男性 被爆当時10歳

プロフィール

片淵町3丁目で上長崎国民学校5年生。学校の授業はほとんどなく、先生の命令で松脂採集が日課。 8月9日、近くの馬場水道に数百人の負傷者が集まっていた。衣服が肌に食い込んでいる人、真っ裸の人、顔が真っ黒の人、目玉がむき出しの人、浦上から本原越えで来た。大人たちに交じって自宅からバケツと柄杓を持ち出し、負傷者に水を飲ませた。水を飲んだ負傷者は新大工町方面に歩いたが、水を飲んだ後、地べたに座り込んで死んだ人もいた。

三瀬 清一朗 (みせ せいいちろう)
男性 被爆当時10歳

プロフィール

当時伊良林国民学校5年生(10歳)、爆心地から3.6㎞の屋内で被爆。家族8名は無事だったが、家の中は惨憺たる有様、後片付けに追われた。
数日後、学校が気になり様子を見に行くと、想像を絶する現場。瀕死の人、大火傷でリヤカーで運ばれてくる人、「水を、水を」と叫び、苦しさのあまり「殺してくれ、殺してくれ」の声。救護が間に合わず、次々と亡くなり、校庭で焼かれる様を嫌というほど見せられた。
戦争の悲惨さを伝えていきたい。

門 隆 (かど たかし)
男性 被爆当時9歳

プロフィール

その日は朝からカンカン照りで、僕はランニングシャツに半ズボン姿で、外で工作遊びをしていた。その時11時2分、ピカッ!グアーン!!と強風。おやっ何だろう?と思った。大人の方々が「敵機来襲、敵機来襲!逃げろ逃げろ、急げ急げ!」と大声。やっと防空壕へ逃げた。
父は大橋町の三菱兵器工場で被爆後、翌日死亡。兄は長崎商業学校で爆死。実に悲しい日々を母・姉・僕の3人で過ごす。

末永 浩 (すえなが ひろし)
男性 被爆当時9歳

プロフィール

人間と核兵器は共存できない。核兵器を廃絶しなければ、人類滅亡の可能性がある。母と妹二人は長崎市立山で被爆。後で母と妹の一人は死亡。兄と私は諫早に疎開していて、入市被爆。私は国民学校4年。著書「ナガサキから子供たちへ」。「原爆教師まっしぐら」。「私の原爆平和教育」(1~16)。郵政職員から教師となり、平和教育に取り組む。アメリカで被爆を語り、中国の大学で日本語教師をしながら原爆と加害を話す。

羽田 麗子 (はだ れいこ)
女性 被爆当時9歳

プロフィール

長崎市に原子爆弾が投下された時、私は国民学校の3年生でした。自宅は爆心地から2.6㎞離れた所に住んでいましたが、自宅と爆心地の間に山(336m)があったため、無傷の状態で助かりました。しかし翌日からその山を越えて来られた方々は想像を絶する状態で、今でもその時の状況が心の奥深く刻み込まれています。子どもたちに、平和と命の大切さを伝え続けたいと思っています。

山川 剛 (やまかわ たけし)
男性 被爆当時8歳

プロフィール

私は爆心地から約4㎞の地点で被爆しました。国民学校3年生で8歳でした。左の耳たぶを火で焼かれる熱さで防空壕に飛び込みました。小学校教師としての体験を生かし、将来を担う子どもたちに核兵器廃絶・いのちの尊さ・平和実現への希望を語り続けたいと思います。

市丸 彪 (いちまる たけし)
男性 被爆当時8歳

プロフィール

当時8歳。岡町の自宅に塩を運ぶ途中、大波止の踏切(爆心地より約3㎞)で被爆。半袖、半ズボン、下駄履きだった体を原爆の熱線で火傷した。新興善国民学校で応急手当を受け、長崎駅前から浜平町の山手を、負傷者が水を求めているのを避けながら、浦上天主堂の下の川まで来た。そこで火傷をした多くの人が折り重なり、水を求めて動いているのを見た。地獄絵図だった。原爆の怖さ、悲惨さ、戦争の愚かさ、平和の大切さを伝えたい。

奥村 アヤ子 (おくむら あやこ)
性 被爆当時8歳

プロフィール

爆心地に近い城山町(500m)で被爆。一瞬にして9人の家族は引き裂かれ、私は一人ぼっちになってしまいました。このような悲しさと苦しさを次代を担う子どもたちに与えてはならない。そのために核兵器廃絶を願い、訴えています。

今道 忍 (いまみち しのぶ)
男性 被爆当時8歳

プロフィール

1945年8月9日、爆心地から4.5㎞の自宅(西泊町)で被爆。8歳だった。私と家族に被害はなかったが、数日前に浜口町へ転居した友人を原爆で失う。8月18日、米兵隊の長崎上陸の噂を恐れて家族で約40㎞離れた西彼町大串郷へ疎開する途中、松山町に入市被爆。現在、甲状腺異常は毎月の検査を欠かせず、経過観察中であるが、残虐な戦争と原爆の実相を訴え、世界の全ての核兵器の廃絶と恒久平和実現のために、微力を尽くしたい。

計屋 道夫 (はかりや みちお)
男性 被爆当時8歳

プロフィール

爆心地から3.8㎞離れた十人町に住んでいて、佐古国民学校の2年生の時、自宅で被爆した。
昭和20年8月9日、前日より友人と浦上川に泳ぎに行く約束をしていたが、当日の朝、親から「学校の宿題をしてから行け」と厳しく言われ、自宅で勉強中、光と爆風を受け、母と兄、私の3名がガラスの破片、家具の倒壊により傷を受けたが、大事なかった。友人は行方不明になった。近所の家は半壊、県庁が三日三晩燃えたのを憶えている。

清野 定廣 (きよの さだひろ)
男性 被爆当時8歳

プロフィール

当時8歳、12㎞離れた深堀村の寺で遊んでいる時、爆風にあおられた。これは広島に落とされたピカドンと同じもので恐ろしいものだと解り、兵器工場に動員されていた20歳の姉が無事だったので、私、兄、妹の4人で佐賀県へ疎開した。
爆心地を通り道の尾駅まで歩いた時に見た、残虐極まりない死傷を受けた多くの人達の痛恨の叫びと、無傷だった姉が一週間後、放射能障害を発症して逝った無念な思いを語り続けたい。

池田 松義 (いけだ まつよし)
男性 被爆当時7歳

プロフィール

当時、城山国民学校2年生(7歳)。爆心地から700mで被爆。家族は両親と曾祖母、私、父の親戚3人の7人で暮らしていたが、私一人が生き残り、6人が相次いで亡くなった。特に父、曾祖母、母が次々と亡くなり、当時7歳だった私が3人を焼いた様子を、今も忘れることが出来ない。
家族全てを亡くし、戦後の混乱の中を行きぬき、今も放射線の恐怖に怯えて暮らす日々の中で、平和の尊さを訴え続けていきたい。

八木 道子 (やぎ みちこ)
性 被爆当時6歳

プロフィール

爆心地から3.3㎞の鳴滝町で被爆、当時小学1年生(6歳)。家には兄姉弟の5人だけだった。
一瞬にして聞こえなくなった蝉の声、異様な空の色、やけどを負った身体に湧く無数のうじ虫と異臭は、今もはっきり記憶にある。
最後に勤務した城山小学校では、1400名余の児童と先生方が命を失くした。 「戦争は最大の差別」という。平和とはどういうことをいうのか、考えていきたい。

池田 道明 (いけだ みちあき)
男性 被爆当時6歳

プロフィール

私は国民学校1年生の時、長崎医科大学附属医院で被爆。火炎の中、坂本町から穴弘法さんを経て金毘羅山の高射砲陣地まで逃げ延びそこで1泊。翌10日朝、勝山国民学校へ下り、小川町、駅前、銭座町、岩川町から大学病院へと辿り着き母と再会という行程の中で、眼にし耳にした様々な事を思いおこす時、斯様な惨劇を繰り返してはならない。この願いを次世代へ語り継ぐ事こそ、九死に一生を得た私に課せられた使命だと思っています。

小西 伸一 (こにし しんいち)
男性 被爆当時6歳

プロフィール

ピカッ・ドーン。目を射る閃光と天地を揺るがす大音響の火の玉の炸裂だった。6歳の私は爆心地から4kmにある大浦天主堂の白衣の聖母像の前にいた。初聖体を受けるための教会学校の帰りだった。爆風のショックで尻もちをついた私の頭にガラスの破片が降り注ぎ、後頭部に怪我をした。
5日後には兵器工場で亡くなった19歳の叔母さんの葬式があり、大浦から北に7kmの阿蘇墓地への廃墟と化した原子野はまさに地獄図だった。

城臺 美彌子 (じょうだい みやこ)
性 被爆当時6歳

プロフィール

当時6歳。爆心地より2.4㎞離れた山陰の立山町で被爆した。自宅内に居た事で外傷もなく、落ち込んだ床下から助け出された。その後、金比羅山中腹にあった防空壕で数日過ごし、旧市内が真っ赤に焼けていくのを見た。翌日、敵機が頭上をぐるぐると低空飛行し、恐ろしい記憶として残っているが、後日、被爆後の長崎を偵察にきたと知る。教職在職中、戦争や原爆について充分に伝えられなかったので、今「長崎を最後の被爆地に」と語っている。

大庭 義弘 (おおば よしひろ)
男性 被爆当時5歳

プロフィール

長崎市竹之久保町で生まれ、昭和20年7月末まで爆心地から約800mのところに住んでいた。米軍の空襲を避けるために喜々津村に疎開して助かった。 8月9日は、山の上の芋畑で作業中、鋭い閃光が走り、ドカーンという物凄い響き、台風の何倍もの爆風で親子4人は畑の隅まで吹き飛ばされた。11日から市内に入り、叔父他の安否を尋ねて探し歩いた。8名が死亡した。 この原爆の恐ろしさと悲惨さを語り、平和の尊さを訴えたい。

木口 久 (きぐち ひさし)
性 被爆当時5歳

プロフィール

落下中心地より2.5km離れた大鳥町で被爆。5歳でした。 母は浦上に食糧の買い出しで被爆死。残された5人の子供は屋内で無事。ピカドン、原爆機を見たこと、家の屋根半壊その震動のすごさに兄弟固まって泣いた。体験はそのくらいですが、原爆の怖さ、戦争の愚かさはわかりますのですべての人と連携し連動し、平和推進のために結集していきたいと思っています。
一緒になって考え、英に集い、永遠の平和を希望してその為の柱石になりたい。

小峰 秀孝 (こみね ひでたか)
性 被爆当時4歳

プロフィール

当時4歳8ヶ月、爆心地より1.5kmの自宅近くの畑で被爆、両手、両足、腹を火傷し足は3回手術を受ける。
「戦争や原爆の恐ろしさを次の世代に伝えていくことが被爆者の役目」と現在語り部として活動している。

伊藤 武治 (いとう たけはる)
男性 被爆当時4歳

プロフィール

爆心地より3.8㎞、唐人屋敷の天后堂より30m位下で被爆。しかし、当時4歳の私は戦争が何かも判らず、恐いとも思わず、原爆で亡くなった人でも、汚れたおじさん達が寝ているぐらいに感じていた。成長していくにつれ、大変な時代だったことを知る。
8人兄弟それぞれの体験や、伯父一家全滅で、私が遺族代表になっていたことを、若い人達に知ってもらい、人間として、今後どう生きていくべきかを考えてほしい。

堀田 武弘 (ほりた たけひろ)
性 被爆当時3歳

プロフィール

当時3歳。爆心地から約3.2㎞の伊良林町で被爆。
あの日、姉・兄・私の3人は、自宅近くでままごと遊びをしていた。B29の音を聞いた姉が「防空壕へ!」と叫び、壕に避難したため、私たちは怪我をせずに済んだ。直前まで遊んでいたリンゴのおもちゃを失くし、大泣きしたことを覚えている。
最初の投下目標に投下されていたら、運命が違っていた。原爆とはそういうものだ。全ての子どもたちが戦争の悲劇に遭わないように願っている。

三田村 静子 (みたむら しずこ)
性 被爆当時3歳

プロフィール

3歳8ヶ月の時、爆心地より4㎞の福田の自宅縁側で、兄と2人の姉の4人で食事中に被爆。その時、放射性降下物と思われる灰がご飯の上に降りかかり、それを食べてしまった。
後年、2人の姉がガンを発病し、一人は死亡。私も二度ガンを患うなど体の変調に苦しんできた。
現在、被爆者の体験を紙芝居にして学校等で上演し、原爆の悲惨さ、愚かさの継承に努めている。これからも核兵器廃絶と、平和と命の尊さを若い人に訴えていきたい。

松本 美都恵 (まつもと みとえ)
性 被爆当時3歳

プロフィール

自宅は爆心地から2.1㎞の西坂町にありましたが、その日は朝から母におんぶされて疎開先に決まっていた長与(爆心地から4㎞)に向かいました。
母の背中から下りたその時、強烈なオレンジ色の光が辺りを照らしました。両親や私は無事でしたが、同居していた叔母は行方不明のままです。
3歳だったので記憶は途切れ途切れですが、あの光を見た者として、伝えなければと思っています。

岩永 芙美子 (いわなが ふみこ)
女性 被爆当時1歳

プロフィール

爆心地から4km地点、避難していた防空壕から家に戻る途中に、祖母・母と3人で被爆。2歳を迎える直前で、記憶はない。 父は1.8kmで被爆。担架で運ばれてきた白い包帯姿の父に、私は「お父さんではない、お化けだ」と言って近寄らなかった、と母が体験記に記している。 2晩野宿して小浜町の親類宅へ行く。そこで私が伝染病にかかり、命が危なかったことなどを母が話してくれた。 戦争の愚かさ、平和の大切さを伝えたい。

橋本 富太郎 (はしもと とみたろう)
性 被爆当時1歳

プロフィール

被爆当時、爆心地から南に4Kmの自宅に母と居た。1歳11ヶ月で、記憶は無い。両親は、体験記を記録している。
 父は、赤紙が来て久留米の連隊に行くも難聴で兵隊になれなかった。郵便局員として通信・電話業務を確保するため爆心地を通り食糧確保に努めたと記して居る。
私は、中学時代から、種々の病気やケガを体験して来た。私の身体には被爆の記録がある。 これらのことを通して、平和の大切さ戦争の酷さ伝えたい。

退会者

吉山 秀子
女性 被爆当時22歳
2008.1.31ご逝去
吉田 孝子
女性 被爆当時18歳
2008.6.23ご逝去
笹尾 昭
男性 被爆当時18歳
2008.7.25ご逝去
森 幸男
男性 被爆当時14歳
2010.3.17ご逝去
吉田 勝二
男性 被爆当時13歳
2010.4.1ご逝去
室園 久信
男性 被爆当時18歳
2011.2.1ご逝去
渡邉 司
男性 被爆当時13歳
2011.8.31ご逝去
出口 輝夫
男性 被爆当時9歳
2011.10.7ご逝去
濱崎 均
男性 被爆当時14歳
2012.2.2ご逝去
﨑田 昭夫
男性 被爆当時16歳
2012.2.8ご逝去
川原 竹一
男性 被爆当時17歳
病気療養のため退会
谷口 恵美
女性 被爆当時22歳
2012.8.8ご逝去
松添 博
男性 被爆当時14歳
2014.4.13ご逝去
岩永 光治 
男性 被爆当時8歳
病気療養のため退会
今田 斐男
男性 被爆当時16歳
2015.11.8ご逝去
廣瀬 方人
男性 被爆当時15歳
2016.1.13ご逝去
太田 洋一
男性 被爆当時9歳
2016.2.23ご逝去
西田 清
男性 被爆当時16歳
2017.8.6ご逝去
谷口 稜曄
男性 被爆当時16歳
2017.8.30ご逝去
吉田 勲
男性 被爆当時4歳
2017.10.4ご逝去
恒成 正敏
男性 被爆当時16歳
2017.10月ご逝去
池田 早苗
男性 被爆当時12歳
2019.5.16ご逝去
安井 幸子
女性 被爆当時6歳
病気療養のため退会
尾畑 正勝
男性 被爆当時27歳
2019.12.12ご逝去
内田 伯
男性 被爆当時16歳
2020.4.6ご逝去
三宅 レイ子
女性 被爆当時20歳
2021.3.25ご逝去
永野 悦子
女性 被爆当時16歳
病気療養のため退会
和田 耕一
男性 被爆当時18歳
2021.7.6ご逝去
原田 美智子
女性 被爆当時6歳
転居のため退会
峰 徹
男性 被爆当時9歳
病気療養のため退会
田川 博康
男性 被爆当時12歳
2022.5.27ご逝去
中村 一俊
男性 被爆当時11歳
2022.6.18ご逝去
山脇 佳朗 
男性 被爆当時11歳
2022.9.17ご逝去
森口 貢
男性 被爆当時8歳
2022.12.13ご逝去
深堀 讓治
男性 被爆当時14歳
病気療養のため退会
中川 知昭
男性 被爆当時9歳
病気療養のため退会
内野 節雄
男性 被爆当時1歳
病気療養のため退会
早崎 猪之助
男性 被爆当時14歳
2023.4.28ご逝去
山川 富佐子
女性 被爆当時3歳
病気療養のため退会
下平 作江
女性 被爆当時10歳
病気療養のため退会