交流証言者プロフィール

被爆者:山口彊 被爆当時29歳

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証言者

・稲塚 秀孝 (いなづか ひでたか)

講話内容

広島と長崎で被爆した二重被爆者である山口彊さんの被爆体験を話す。広島市へ出張していた山口さんは、8月6日の通勤途中に江波町(3㎞)で被爆。翌日、避難列車で己斐駅から長崎へ戻る。8月9日長崎三菱造船所(3.5㎞)で二度目の被爆。戦後は、アメリカ軍の通訳、英語の教師を経て、三菱造船所に復職。90歳でニューヨーク国連本部とコロンビア大学で核廃絶を訴えた。山口さんのドキュメンタリー映像:「二重被爆」2006年公開、「二重被爆~語り部山口彊の遺言」2011年公開、「ヒロシマナガサキ最後の二重被爆者」2019年公開。

被爆者:築城昭平 被爆当時18歳

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・鈴田 健二 (すずた けんじ)
・三宅 杏風(みやけ きょうか)※休止中
・大塚 久子(おおつか ひさこ)

講話内容

爆心地から1.8㎞の当時長崎師範学校(現西浦上中学校)の寮で被爆した築城昭平さんの被爆体験を話す。築城さんは当時18歳だった。 軍需工場へ学徒動員され、当日の夜勤にそなえ睡眠中に被爆。全身火傷を負ったが、長与まで徒歩で歩き、救護所で治療を受けたのち、探しに来た父親に家に連れ帰ってもらった。 被爆体験は自分の言葉でないと伝わらないと英語を勉強して海外にも発信している。

被爆者:西山進 被爆当時17歳

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・調 仁美 (しらべ ひとみ)

講話内容

爆心地から4㎞離れた工場で被爆し、翌日、爆心地から約1.4㎞離れた大橋工場へ仲間を救援に向かった西山進さん(被爆当時17歳)の被爆体験を話す。 「救援隊と言ってもぼくたちにはどうすることもできなかった。8月10日の様子は今でも目に焼き付いて離れません。」 西山さんは福岡で漫画家として活躍していたが、2022年にご逝去。西山さんが遺した紙芝居を交えながら話す。

被爆者:伊達木信子 被爆当時15歳

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・中村 浩二 (なかむら こうじ)
・中島 麗奈 (なかしま れな)

講話内容

爆心地から1.4㎞の茂里町で被爆した伊達木信子さんの被爆体験を話す。 伊達木さんは被爆当時15歳で、茂里町の兵器工場で動員作業中に被爆した。 防空壕、大学病院裏の広っぱ等をたどり、その日のうちに自宅へ帰りついた姿は、家族でも誰かわからない有様であった。 父は城山国民学校で被爆し、数日後に帰らぬ人となった。 被爆後も様々な差別に苦しんだ。

被爆者:村上八重子 被爆当時15歳

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・福島 富子 (ふくしま とみこ)

講話内容

爆心地から700m離れた山里国民学校で被爆した村上八重子さん(当時15歳)の被爆体験を話す。学徒動員として働いていたときに被爆。何度も意識を失いながらも翌日自宅に帰ることができ、被爆3日後には道ノ尾駅近くの仮診療所で全身37箇所からガラス片を取り出してもらった。生死を彷徨いながらも、「死にたくない、生きたい」という強い気持ちで生き抜かれた。

被爆者:深堀讓治 被爆当時14歳

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・山﨑 務 (やまさき つとむ)

講話内容

爆心地から約3㎞の長崎中学校で被爆した深堀譲治さんの被爆体験を話す。 深堀さんは被爆当時15歳で、長崎中学校で動員作業中に被爆した。 爆心地から約600mにあった自宅で母は黒焦げになり亡くなった。 また、弟・妹も自宅付近で亡くなっていた。 すぐ下の弟はかろうじて即死は免れたものの、8月17日、「兄ちゃん死ぬなよ」という言葉を残して亡くなった。

被爆者:尾﨑正義 被爆当時13歳

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・室井 栄子 (むろい えいこ)

講話内容

爆心地から約6㎞離れた屋外で作業中に被爆し、被爆地から約1㎞離れた竹ノ久保町にあった下宿先へ向かった尾﨑正義さん(被爆当時13歳)の被爆体験を話す。焼け野原、黒焦げになった馬、助けを求める人、やっとたどり着いた下宿先には火の手が迫っていた。 尾﨑さんは、室井氏の中学校2年生の時の担任で、美術の先生であり、現在は画家として活躍されている。講話で使用する、被爆当時の光景などを描いた絵は、尾﨑氏によるもの。

被爆者:丸田和男 被爆当時13歳

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・杉本 伸一 (すぎもと しんいち)
・坂本 薫 (さかもと かおる)
・近藤 記江 (こんどう のりえ)
・堀田 雄二(ほった ゆうじ)

講話内容

爆心地から1.3㎞の銭座町の自宅で被爆した丸田和男さんの被爆体験を話す。 丸田さんは被爆当時13歳で、倒壊した家の下敷きとなり、重傷を負いながらも助かる。 母は亡くなり、県立瓊浦中学校の同期生300人中約100人が原爆の犠牲となった。 現在も後頭部から背中にかけて、約50箇所のガラス傷が残る。

被爆者:吉田勝二 被爆当時13歳

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・白鳥 純子 (しらとり じゅんこ)

講話内容

爆心地から約850mの場所で被爆した、吉田勝二さん(2010年ご逝去)の被爆体験を話す。 吉田さんは被爆当時13歳だった。 顔に大やけどを負い、何度も手術をおこなったが、右顔面にやけどの跡が残り、周囲の冷たい目に苦しんだ。

被爆者:田川博康 被爆当時12歳

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・久家 江光子 (くが えみこ)
・竹田 果鈴 (たけだ かりん)
・河野 正二 (かわの しょうじ)
・三根 礼華 (みね あやか)

講話内容

被爆地から3.3kmの疎開先で被爆した田川博康さんの被爆体験を話す。 田川さんは被爆当時12歳で、爆心地に近い竹の久保町で被爆した両親を探して原子野を歩いた。 負傷した父を救護所へ運び、手術してもらうも死亡し、外傷がなかった母もその後亡くなった。 2017年、自身の被爆体験を基にした紙芝居が、長崎市立三川中学校の協力で完成した。

被爆者:山田一美 被爆当時12歳

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・三根 礼華 (みね あやか)

講話内容

国民学校6年生(12歳)の時、被爆した山田一美さんの体験を語る。 爆心地より2.3㎞の路上で突如、真夏の太陽より更に明るい閃光に包まれ、熱さに死を覚悟したが、幸い岩陰にいたため怪我もなく無事だった。 自宅近くの溝に祖母・叔母と家族3人で身を潜めながら黙々と、幽鬼のように歩いて行く被爆者の群れを見ていた。 原爆の無差別性、非人道性を知ってもらいたい。

被爆者:中村一俊 被爆当時11歳

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・原田 真美 (はらだ まみ)
・山﨑 務 (やまさき つとむ)
・荒木 千尋 (あらき ちひろ)

講話内容

当時、山里国民学校6年生(11歳)。爆心地より1.5㎞の農家で被爆する。屋内にいたため、幸い怪我は免れたが、家の下敷きとなり、辛うじて脱出した。一足先に帰路についた母は途中で被爆、遂に遺体も見つからなかった。自宅は爆心地の近くであったため、弟達4人は爆死した。 私自身も現在まで、入院や体の変調に苦しんできた。 原爆の悲惨さ、戦争の愚かさを若い人に伝えたい。

被爆者:山脇佳朗 被爆当時11歳

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・松尾 蘭子 (まつお らんこ)
・松野 世菜 (まつの せいな)
・廣瀬 美由紀 (ひろせ みゆき)

講話内容

爆心地から2.2kmの自宅で被爆した、山脇佳朗さんの被爆体験を話す。 山脇さんは被爆当時11歳で、父を捜しに、兄弟と三菱製鋼所へ行くも、父は死亡していた。 父の火葬は不完全で、つついた頭がい骨から脳が流れ出た。 父亡きあとの戦後の生活は大変であった。 山脇さんは以前、非核特使も務め、海外に向けて英語での講話も行っている。

被爆者:下平作江 被爆当時10歳

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・山下 恵子 (やました けいこ)
・吉田 睦子 (よしだ むつこ)

講話内容

爆心地より800mの防空壕で被爆。母と姉は黒こげになり、兄は3日後に黄色い汚物を吐きながら死にました。 私は髪が抜けハグキから血がでて体に斑点ができ苦しみました。二度とこのような苦しみを与えてはなりません。

被爆者:森田博滿 被爆当時10歳

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・中村 幸博 (なかむら ゆきひろ)
・小川 由姫 (おがわ ゆき)
・馬込 雅子(まごめ まさこ)

講話内容

当時10歳、爆心地から1.8㎞の自宅で被爆。当番のため学校に出かけた帰り道、後ろで飛行機の轟音がした。振り返ると稲佐山の上に落下傘が見えた。その行方を兄と二人、目で追っていた。先輩が配給を知らせにきたので、父に知らせようと落下傘を見ながら玄関に入った瞬間、電気のスパークのようなオレンジ色の光と爆風に包まれ、家の中に5~6m吹き飛ばされ、気を失った。 「100分の1秒の命」あと一歩遅れていたら私の命は無かった。

被爆者:門隆 被爆当時9歳

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・廣岡 胡美 (ひろおか くるみ)
・峯松 絢音 (みねまつ あやね)

講話内容

爆心地から約3.5㎞の長崎市銅座町の橋のたもとで、おもちゃの飛行機を工作している時に被爆した門隆さんの被爆体験を話す。門さんは当時9歳だった。 一面に広がる強い光を見たかと思うと、強風に襲われた。探しに来た母と共に防空壕へ逃げる。父は大橋町の三菱兵器工場で被爆後、翌日死亡。兄は長崎商業学校で爆死した。 その悲しみを背負いながら、母、姉と共に3人で過ごす。

被爆者:末永浩 被爆当時9歳

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・吉田 睦子 (よしだ むつこ)
・野崎 秀人 (のざき ひでと)

講話内容

入市被爆した末永浩さんの被爆体験を話す。 末永さんは被爆当時9歳で、8月9日は諫早に疎開しており、その後入市被爆した。 母と妹は長崎市内で被爆した。末永さんはその後教師となり、平和教育にも力を入れる。 末永さんは、(公財)長崎平和推進協会継承部会元・部会長。

被爆者:田中幸子 被爆当時9歳

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証言者

・室井 栄子 (むろい えいこ)

講話内容

田中幸子さんと、そのご家族の被爆体験を話す。田中さんは11人家族で、自宅は爆心地から約600mの所にあった。原爆投下の瞬間、自宅に居た父と姉、工場に居た姉の3人が被爆。 田中さんを含む8人は疎開していたが、父と姉2人を探しに長崎へ行った母は12日に、その他7人は19日に、自宅付近で入市被爆した。

被爆者:池田道明 被爆当時6歳

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証言者

・山野 湧水 (やまの ゆうみ)
・水谷 遥 (みずたに はるか)
・松山 咲 (まつやま さき)
・上妻 裕子 (こうづま ゆうこ)
・村田 くみ (むらた くみ)
・横田 正俊(よこた まさとし)
・岸田 英里(きしだ えいり)

講話内容

爆心地から700mの長崎医科大学附属医院で被爆した、池田道明さんの被爆体験を話す。 池田さんは被爆当時6歳で、金比羅山で一夜を明かし、翌日病院で母と再会した。 被爆直前まで一緒に遊んでいた、命の恩人でもある「しげちゃん」とは、池田氏が田舎に疎開したのを最後に、これまで会うことができないでいる。

被爆者:大庭義弘 被爆当時5歳

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・藤田 幸代 (ふじた ゆきよ)

講話内容

入市被爆した大庭義弘さんの被爆体験を話す。 大庭さんは被爆当時5歳で、8月9日は喜々津村(現・諫早市)に疎開しており、その後両親とともに親戚を探すため長崎を訪れ、入市被爆した。 疎開前に住んでいた竹の久保の自宅は全壊した。大橋町の親戚一家は、その後数年間にわたり探すが、消息不明のまま。

被爆者:吉田勲 被爆当時4歳

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・田平 由布子 (たびら ゆうこ)

講話内容

爆心地より3.9㎞離れた自宅で被爆した吉田勲さん(平成29年ご逝去)の被爆体験を話す。 吉田さんは被爆当時4歳で、祖母と防空壕へ避難する途中で唇上部を負傷した。 被爆から48年間の時を経て、被爆体験を語るようになった。 平成29年10月急逝。 ◆田平氏は、その後吉田氏を知るかたにも話を聞き、講話を完成させた。